私は夫、娘、息子、姑の5人家族です。
夫はサラリーマン。そして、そしてテニスおバカをしています(苦笑)
休日は家にいた事が無いくらい。
私が抗がん剤で苦しんでいても、・・・行っちゃいます。
何て冷たい人だろうと思いつつ・・・
  アー、のんびり出来る~~かも!
そうなんです。「亭主元気で留守がいい」 ってね!

娘は大学3回生。只今京都にて一人暮らし満喫中!
いっちょまえに「彼氏」なんて者を作っちゃって・・・
まったくどんな生活を送っているのやら・・・
でもまあ、就職活動の真似事はしているようです。
この御時世です。思うようにはいかないようです。
彼氏?まあ「いい奴」かな!!?

息子は高3。昨日センター試験を受けてきました。
自己採点しながら
 「やべ~っ!だめだあ~」
の繰り返しでした。
この一年、私は乳がんと戦いながら、遠くにいる娘は勿論、息子にはなるべく心配をかけないようにしてきました。
でも心配をかけていない訳が無く、不憫に思っていました。
思うように行かず私に反発してきた時もありました。
そんな時きっと私はすごく悲しい顔をしていたんだと思います。
私の顔を見るなり部屋にこもってしまいました。
友達のお母さんは塾の送り迎えを車でして上げているのだろう。
弱視の私は車の運転は勿論の事、夜歩く事も出来ず、駅まで傘を持って行ってあげることすらできませんでした。
乳がんになってからは、夜起きていられず、夜食なんて物は作ってあげる事は出来なかったのです。
夜中に電子レンジのなる音が静まり返った部屋に響き渡った時、
その時ほど情けない自分に腹が立った事はありませんでした。
涙があふれてきました。
そんな繰り返しで、センター試験を受けました。
結果は・・・・聞かないで~~・・・
 この先どうなる事やら(溜息)

それから姑。
姑は今までかなり苦労をしてきました。
夫(主人の父)を47歳で無くし、
息子二人を女手一つで育ててきました。
そしてその大事に育ててきた長男(主人の兄)も病気で37歳で失ったのです。
その時の母の気持ちは想像がつきません。
子供を失うほど辛いものはありません。
兄には妻子が有ったのですが、兄嫁さんは残された子供を育てていく事で精一杯だったのでしょう。
気落ちしている姑まで手が回らないのも無理はありません。
そこで、私達家族との同居が始まったのです。
苦労があまりににも多かった姑は一時はうつに悩まされましたが、今では好きな俳句を作ったり、老人会に意欲的に参加し、元気に過ごしています。
年を取ってから見知らぬ土地に住むことになったので、心配していましたが今は私より元気?です。
こんな私ですので、姑には随分援けられています。

あっ!!忘れてはいけない、もう一人?の家族は・・・
ミニチュアダックスのごんちゃんです。
ごんちゃんのことを話し出すと長くなりそうなので、又今度。
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# by marcia_marcia | 2006-01-23 12:56 | 家族と
私が乳がんの告知を受けたのは一昨年の8月のことでした。
少し前からしこりに気づいていたのです。
もしかしたら・・・と思う反面、まさか私が・・・と言う気持ちが強く数日、もんもんとした日を過ごしました。

家族の進めもあり、勇気を出して病院に行きました。
エコーのモニターを見ながら医師は
「随分大きいね。 詳しい検査の結果を見ないとハッキリした事は言えないが、 悪いものの確立が高いですね」
やっぱり・・・と思うと同時に、(でもまだそうとは決まっていない)自分にそう言い聞かせるようにして、家に帰りました。

数日後、夫と二人で病院に行き、告知を受けました。
 「ご主人、大丈夫ですか?」
看護師さんのその一言で我に帰った私。
主人を見ると、やっと椅子に座っていられる状帯で、首をうなだれていました。
その様子を見た私は、自分でも驚くほど冷静に医師と、これからの事を話す事が出来ました。
自分でも不思議でした。
 (男っていざとなると駄目だなあ。
  私はこんなにしっかりしているのに)
自分でも驚くほど冷静でした。 

まさか私が・・・と思っていた私でしたので、近くの病院に行ったのですが、手術をするということになると、眼の事もあるので転院を希望しました。
隣町の市立病院に紹介状を書いてもらいました。

私は市立病院で数回の眼の手術を受けています。
その関係で、転院を希望したのですが、医師は快く、私の希通りにするよう、市立病院の医師と連絡を取って下さいました。
有り難かったです。

翌日市立病院に受診しました。
その日から私の乳がんとの戦いが始まったのです。
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「Yちゃん、Kちゃん私、乳がんになっちゃったの!」
いつか報告したかった。
でも・・・できないまま一年以上の月日がたってしまいました。
亡くなったう友人と共に学生時代を過ごした大切な、友達である。

辛くて、辛くて言えなかった。
彼女たちも又、私と同じように亡くなった友のことを悔やんでいた。

あの時なぜ喧嘩別れをしてしまったのか、
病気になった時、力になってあげる事ができなかった、って 

そんな優しい彼女たちである。
私はそんな優しい彼女たちに病気のことを報告していない。
ただ単に心配をかけたくなかったから?
それだけでは有りませんでした。
亡くなった友と自分とがダブってしまい、話すと必死に突っ張っていた心が、こなごなになってしまうような気がして・・・

手術を受けてから二人とは数回逢いました。
その時どれほど報告しようと思った事か・・・
でもできなかった。
みんなでおしゃべりしている、そんな楽しい時間を壊したくなかった。

でも月日がたち、私は病気になったお陰で
沢山の人と知り合う事が出来ました。
沢山のことを教えていただきました。
生きていく楽しみ、喜びを教えられました。
そして私は強くなりました。
毎日、毎日天国の友に泣いて話をしていた私から卒業できました。
今は、毎日楽しい事を報告できるようになりました。
生き生きとしている私の方がいいよね。

だから私、Yちゃん、Kちゃんにちゃんとお話ししますね。
きっと驚くでしょう。そして・・・怒るだろうな・・・親友なのに・・・って
ごめんなさい。心を込めて一生懸命にお話します。
天国のあなた、応援してね。

わたしがこんなに変わる事が出来たのは
同じ病気の仲間のお蔭です。
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話が前後しましたが今日はこのブログのタイトルにもしました、今は亡き友の事を書きます。
六年前、彼女は乳がんでこの世を去りました。
39歳でした。あまりにも早すぎる死でした。

彼女とは大学の時に知り合いました。
弱視の私でしたが、何とか入学でき、そこで彼女と知り合いました。
たまたま横の席に座り、話をしたら、なんと家が同じ方面である事がわかり,そこから付き合いが始まりました。
彼女は明るくて、いつもニコニコして太陽みたいな人でした。
弱視の私は、彼女の助けが無ければ卒業出来たかどうかわかりません。

そんなそんな大切な友だったのに・・・
卒業真近のある日、喧嘩別れをしてしまったのです。
そしてそのまま卒業してしまいました。

今思えばたわいも無い事でした。後悔しています。
そんなむきになるような事ではなかったのに・・・
お互い若かったんですね。

それからどのくらいの月日がたったのでしょうか。
二人ともそれぞれ結婚し、育児に追われる毎日でした。
子供が学校に入り、ほっとしたある日,私は彼女の夢を見ました。
彼女にどうしても謝りたいと思い電話しました。
彼女も私と同じようにずっと思っていてくれたのです。
嬉しかったです。
今度子供達を連れて一緒に遊びに行こうということになりました。

そんな矢先の事でした。
彼女が乳がんになってしまったと・・・
その頃私は乳がんに対する知識が無く、手術が終われば又すぐ逢えるって思っていました。
でもそんな簡単なことではなかったのだと後で知りました。

逢いたいとせがむ私に抗がん剤の副作用の辛さを話してくれました。
元気一杯に・・・・
それがどれだけ辛かっただろうと思うと、
無知で愚かだった私を今さらながら悔やんでいます。

それから何年闘病生活が続いたのだろう。
入退院を繰り返し、6年前、彼女は天国に旅立ちました。
結局、一度も会うことなく彼女は逝ってしまいました。

逢いたかった!無理にでも病院に行けばよかった・・・
彼女がいなくなってからそんなことばかり考える毎日でした。
でも今は・・・それでよかったんだって思っています。
学生時代のぴちぴちとした明るいままの彼女が私の胸の中にいるんですもの。
きっと彼女はそれを望んでいたのかもしれないと私は思うのです。

どうしてそう思えるようになったか?
それは・・今私が彼女と同じ乳がんと戦っているから・・・

手術をして一年がたちました。
彼女の事を思い出さない日はありません。
一時はすぐにでも彼女の所に・・・って思い、悩みました。
でもそれは彼女は望んではいない。
彼女の分までこの世で頑張らなければいけない。
そう今は思っています。
そう思えるようになったのは、オリーブ会(患者会)の人達のおかげです。
オリーブ会はまた今度紹介します。
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    (続きです)
その若い医師は、両親から事情を聞くと
 「今なら〇〇先生がいるから・・・」
と診察の手配をしてくれたのです。
後で聞いたら、その先生は私達と同じ県の出身だったそうです。
それだけで私達を助けてくれたのです。
何と言う先生だったか両親は覚えていないようですが、感謝の一言に尽きます。
あきらめなかった両親には頭が下がります。

そして私は左右数回の手術のおかげで、
右0.2 左0.4の視力が出たのです。40年以上前の出来事です。
私が生後7ヶ月の事でした。

それから私は普通の学校(小、中、高、大)と通う事が出来たのです。
牛乳瓶の底のような眼鏡をかけている私、からかわれたり、嫌なあだ名を付けられたり・・・いじめにもあいました。

でも判ってくれる仲間がいて、そういう人達の助けもあり、楽しく過ごす事が出来ました。感謝です。

その視力も数年前まででした。
緑内障そして角膜の白濁・・・
またまた数回の手術を繰り返しました。
今の視力は右0.02  左0.08位です。
視野狭窄もあり、障害の認定をうけています。
でも、くよくよしてはいられません。
何とか前向きに生きていこうと、始めたのがパソコンでした。
今こうして音声を頼りにブログを書けるまでになったのも、視覚障害を持つ仲間達、ボランティア皆さんの支えがあるからです。
大切な仲間達です。感謝です。
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# by marcia_marcia | 2006-01-09 15:59 | 目の病気
私は先天性白内障で生まれました。生後半年ほどたったある日、
私は外耳炎になり母に連れられ耳鼻科に行きました。
そこで母に医師が言った言葉は
 「耳は二、三日もすれば治りますよ。
  でも可愛そうにこの子、全く見えてないんだね」
当然母が知っているものと、医師は思ったらしいです。
母のショックはどんなものだったでしょうか?
子供を持つ私です。父母の気持ちはよくわかります。

その日から父母は私の目を治すためにあちこち駆け回りました。
田舎の病院は軒並み断られたそうです。
 「手術をするならそのお金をこの子に残してあげなさい」
とまで言われたそうです。
それでも父母はあきらめませんでした。

そこで考えた事は、東京に行こう。でした。
右も左もわからない東京、知り合いなんているはずもありません。
東京にさえ行けば治してくれる・・・そう思ったそうです。

どこの病院に行ったらよいか判らず、行った病院は・・・
東大の附属病院!!
いきなり行って診てもらえるはずが有りません。
朝一番の汽車(電車ではないですよ)で行っても受付時間に間に合わない。
今のように簡単に泊まれる所も無く、何回か通ってもとうとう診てもらえませんでした。
途方にくれて赤ちゃんを抱いて長いすに座り、うなだれていた二人はどのように映ったのでしょうか。
そんな時です。一人の若い医師が声をかけてくれたのは。
それが私の人生を変えた第一歩だったのです。
主治医は勿論、この一人の若い医師は私にとって、
とっても大切な恩人の方々です。
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# by marcia_marcia | 2006-01-09 15:41 | 目の病気
少しだけ目の不自由なマーシャです。
一昨年の秋、乳がんの手術を受けました。
色々な悩みが尽きませんが、わんこに癒されて
毎日を過ごしています。
できるだけ更新していきたいと思うので
どうぞよろしくお願いします。
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# by marcia_marcia | 2005-12-26 00:00 | パソコン